うたよむブログ

短歌のこと、読書会のこと

日本歌人2020年2月号 2/2

【日本歌人2020年2月号】
(つづき。前の記事はこちら

日本歌人には「佐美雄の一首」というコーナーがあり、毎月会員が前川佐美雄の歌の鑑賞を行っています。今回は前田寧さんの鑑賞。歌集『植物祭』から。

・かなしみを締めあげることに人間の力を盡(つく)して夜もねむれず
・この虫も永遠とかいふところまで行つちまひたさうに這ひ急ぎをる
(前川佐美雄)

前川佐美雄の歌は世界から疎外感を感じたときに近しく感じることが多くて。今回もなんかこう、不意打ちを喰らってしまった感じ。すっと言葉にならない領域に入り込む歌だよなあと思う。


今月の「『梁塵秘抄』を読む」(馬場光子)は、仏歌の鑑賞。
梁塵秘抄に出てくる仏歌には典拠があり、それは「法華経」だったり「般舟三昧経」だったり、いわゆる「硬質な経典」。

でも梁塵秘抄はそれを大和言葉に転換することで、経典とはまた異なった典雅な世界を生み出したと。
 夢中ニ於テ之ヲ見ルナリ↔夢に見えたまふ
このように響きだけでも全く印象が違う。それに加えて、大和言葉独自の表現なども加わり、立ち上がる世界は経典とは大きく異なる。梁塵秘抄のほうが繊細とも絶妙とも感じます。

当時多くの人に歌われていたという今様。ときに、難しい本よりも流行歌の方が何かを的確に言い当てるように、梁塵秘抄大和言葉ならではの独自の表現力で人々を引きつけていたのかなと思った回でした。
おもしろかった!

日本歌人2020年2月号 1/2

今月も「日本歌人」誌から気になった歌や特集などをメモしていきます。

【日本歌人2020年1月号】

・明朝は霜降るでせう今宵なるサラダに月の香りするなる(佐藤光子)
・時刻む病身の音自省なる鞭は鞭なれど甘やかに生く(佐藤光子)
→自省の鞭は厳しさを思わせるが、どこか達観した全肯定を感じる歌。その背景に、月の香りまで感じるある種の研ぎ澄まされた感覚があっておののいた。

・噴水は直に上がりて折れ下るその宿命をわれも持ちゐし(小山良)
→ぱあっと登ってぱっと落ちる。この宿命は厳しすぎやしないか。だけど、そういうことはままある。作者も持ちゐし、私も持ってる。

・試食してこれはうまいと言ひおれば「おれにくれえ」と隣室の父(森川延一)
→介護をしていると、時々人間の原始的なありようを目の当たりにすることがある。これもそのひとつだろう。自分も隠し持っている生きることへの赤裸々な欲望。

・名も知らぬ小さき池にカモ泳ぎ小さき水輪幾重も光り(大畑美千代)
→名も知らぬ小さな池へのまなざしが優しい歌。幾重にも光る水輪から、自然はあらゆるものに等しく美しさを与えてくれるのかとも思ってしまう。

・日に四時間働いただけの縄文人つながる裸体を鏡にうつす(後藤由美香)
縄文人も現代の私たちも生きるために働いているはずなのに、現代はこんなにも窮屈になってしまった。同じ体を持ちながら、とんでもなく時空を飛んできてしまった気がする。

・だれも連れぬ男の子ひとりバケツもて昼の砂場にしやがんでゐたり(都築直子)
→こういうところに、大人はわからない、男の子ひとりの宇宙があるのだと思う。さみしくないの?は大人の思考。

・過ちに切りし創より落つるもの一滴の鬱一滴の狂(内田令子)
→ふいに切ってしまった指から出てくる血。自分の内に持つその赤さに、ハッとしてしまう。同じように普段は気づかなくても、鬱も狂気も自分の内に確かに息づいているのだ。

奈良時代とてわづか千年余りのことなるに新聞に大騒ぎする朝刊のインクの匂ひ(森本善信)
→でっかいスケールでつかんだ歌。わずか千年と思えば、新聞が騒ぎ立てる大ニュースやスクープが急に軽くなってしまうから不思議。そしてその軽さの中に私たちが生きている。


2/2につづく

日本歌人2020年1月号 2/2

【日本歌人2020年1月号】(つづき。前の記事はこちら

今月から始まった特集連載は「『梁塵秘抄』を読む」(馬場光子)。今回は、子どもの遊び、遊女…等「遊び」の歌から今様の魅力を探っています。

 

「今様の魅力は、これを歌い出したその時点で歌い手その人が主格となり、無心に遊ぶ子どもに相対して、本来この私はどう生きるはずの者だったのかという命題に向かい合う、そんな普遍性にある」

 

という視座を読んで、俄然興味がわいてきました。また、茂吉や白秋の歌にもつながっていたことも初めて知りました。

 

で、ネットでもあれこれ見ていくと俵万智梁塵秘抄の書評を発見。歌の引用も同じ箇所。
https://allreviews.jp/review/746

自分にひきつけて読むとますます作品が身近に感じられます。

 

そこで現代語訳も読んでみようと手にしたのが光文社古典新訳文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4334752306/

演歌調の現代訳?!TalkBackで音声に変換して聞いたのでその驚きはなおさらでした。

 

最後に「遊び」について、昔読んだ白川静の『文字逍遥』の一文をメモ。


「遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。【遊】は絶対の自由と豊かな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界と関わるとき、人もともに遊ぶことができた。」


わかりそうでわかりにくい、ずっと気になっていた一文。『梁塵秘抄』に通じるものがありそうなので残しておきます。

これからの連載が楽しみです。

 

日本歌人2020年1月号 1/2

今月から私の備忘録も兼ねて、『日本歌人』から気になる歌や評論などをメモしていこうと思います。

 

【日本歌人2020年1月号】

・占ひに身を委せたる日もあれど今日のわれは翼もちゐる(仲つとむ)

→翼があれば、風に身を委せることも意思を持って方向転換することもできる。ちなみに一月の占いといえばおみくじ。去年も今年も「でしゃばるな」と出たので、私はしばらく風に身を委せます。

 

・向かうより恫喝顔の車来てなぜか愛車はほほゑみてをり(佐古良男)

→車を真正面から見ると車種によっていろんな顔に見える。車ならそれぞれがそれぞれのままでいいのだけれど、人間はそうはいかない。ほほえみかけられればこちらも微笑んでしまうし、凄まれればこちらは眉をしかめる。「なぜか」とはなんて人間らしいつなぎ方だろう。

 

・使ふことなき搾乳器・冷却器洗ひ終れり明日使ふがに(浦田義子)

→「この家に育ちしうからに牛乳(ちち)を分け酪農七十年の歴史を閉ぢぬ」を含む、酪農最後の日を詠んだ一連。「明日使ふがに」から、動作が深く体に染みついていること、そして今日で最後という実感をまだ持ちきれていないことが感じられて、こころに迫る。

 

・しばらくは六枚葉なるクローバーだけで繋がるふたりの時間(岩田マキエ)

→六枚葉!もし三枚葉ならこの「しばらく」はもっとずっと短い時間だっただろう。六枚葉がくれたボーナスのような「しばらく」。それを慈しむような詠みがやさしいなあと思う。

 

・螺子を巻く指は時空を通り過ぎ箱の蓋とじ膝うえにあり(岡本万貴子)

→一読して、不思議な時間の流れを感じる歌。一連の動作を時系列で詠んだだけなのに、螺子を巻くとき、箱の蓋を閉じるとき、膝の上に手を載せている今、すべての時間の質感が異なっているよう。

 

・出港はあしたの朝かかつを漁船味噌に醤油と積み込まれゆく(山本一成)

→ああ、そうか!漁船の上で漁師さんたちが捌いて食べるときに必要だよね。意外な着眼点で不思議なリアルさを醸し出してる歌。読んで、イメージして、たまらなくお腹がすいた歌。


・募金する動作ゆつくり硬貨見せ百円じやないよ五百円だと(阿部宏祐)

→思わず笑ってしまった歌。そうそう、善意の背景にはいろんな人間らしい思いが渦巻いているものだよね、と。

 

・シケモクをうまいなんぞと思うたら人生終わり 友の吐く、秋(天辰芳徳)

→ここの「終わり」をどう読むか。これは世代によって分かれそう。煙草をある種の美をもって捉えていた時代がたしかにあった。

死(タナトス)と囁くこゑすけむりぐさいつくしきけむりぐさをぞ喫ふ(葛原妙子)

この歌と同じ背景を感じた一首。

 

2/2につづく

この部屋に濃霧立ち込めたる朝の空気清浄機の役立たず/惟任将彦『灰色の図書館』

目に見えないものを疑いもなく信じる私たちを立ち止まらせる歌だ。

朝食でパンか何かを焼いていたのだろうか。そのまま忘れてしまい、焦げ臭さが部屋に充満する。
しまった…という朝のひとこまである。

そんな部屋にある空気清浄機。
目に見えないものは除去するけど、焦げ臭い煙は吸えない空気清浄機。
改めて考えると、なんだか狐につままれた気分になってくる。

もし70年前に空気清浄機があれば、煙を吸えない時点で性能は信じてもらえまい。
だけど今は、そんなものだということがわかっている。だから明日も疑いなく空気清浄機にスイッチをいれるだろう。

現代は、目に見えない技術を信じる能力がだいぶついてきた。
その能力はどこから生まれてくるのだろう。専門家ではない自分のこの信心深さが、ふと怪しく感じられるのだ。

なに聴いているのと聞けばコンクリでおしりがぬくいと目を伏せたまま /初谷むい

音楽というものは、わかり合いにくいものだ。

その曲の魅力について、言葉を尽くせば尽くすほど伝わらない。理解と共感の距離が遠いのだ。

「そっか。あなたはそんなにその曲が好きなのね!」

 

掲出歌の人物は、それを知ってか知らずか「わたし」の問いに答えない。

それでも通じあえている感じがおもしろい。

これはどういうことだろう?

 

きっとこの歌を翻訳するとこんな風になるのかもしれない。

「なに聴いてるの?(→意識がどこか別な世界に行ってない?)」

「おしりがぬくい(→ここにいるって)」

つまり、「わたし」は音楽の世界から相手を引き戻しているのだ。そして相手も体感という今ここの世界で応答する。

 

一見ちぐはぐな、でも意識を引き寄せあう会話。

そんなちぐはぐさはなんだか素敵である。

 

(掲出歌は『花は泡、そこにいたって会いたいよ』より)

 

新しき職場に移りいくつかの秘密の道を歩みて通ふ/太田征宏

新しき職場に移りいくつかの秘密の道を歩みて通ふ

太田征宏/『銀座木挽町』H28

秘密とは、ある事柄に精通しているからこそ、あるものだと思っていた。

しかし、どうやら<未知だから見える秘密>というのもあるらしい。

新しい職場へ向かう新しい通勤の道。

世界はそんな新鮮な心持ちの人たちにだけに、ちょっとした秘密をみせてくれるのかもしれない。

例えば、掲出歌の後にある次のような歌。

 この角をまがればいつも人生を考えてゐる紅き薔薇の芽

新鮮さがあるうちは、周りをよく見て、いろいろな気づきがある。

いつも歩いている人は目もくれない、でも喜びに満ちている空間。

生活感のある職場と言う場所に向かうからこそ、そこにひらかれた<秘密>は美しい。

この道に慣れたらきっと感じることができなくなってゆく秘密を、この瞬間に見つけられた作者は幸せなのだと思う。

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