うたよむブログ

短歌のこと、読書会のこと

2040年の夏休みぼくらは懐かしいグーグルで祝祭を呼び出した /フラワーしげる

未来予想の答え合わせをする〈今〉はちょっと楽しい。

例えば1970年の大阪万博

当時の未来予想(携帯電話、電波時計、電気自動車、人間洗濯機!…etc)を今見ると、そのままの未来あり、驚くような発想ありで、興味深い。

そして当時の人々の未来を見つめる眼差しが、現代の私たちにとって逆に新鮮に感じられる。

この歌も未来予想の歌だ。

めまぐるしく変わって行く現代の20年後なんて、きっと今の想像を超えるものになるだろう。想像がつかないほどの早さで進む時間は、今の当たり前の行為を遥か遠くに押しやり、伝統・伝説・昔語の類いにまでしてしまうのかもしれない。

〈今〉が祝祭という呪術味を帯びた言葉にまとめられてしまう未来。

そんな掲出歌のような予想を、その日の私たちはどのように見つめているのだろう。

陶酔はきみだけでない睡蓮が・・・(前川佐重郎)

陶酔はきみだけでない睡蓮がぎつしりと池に酔ひしれてゐる

前川佐重郎/『天球論』H14

この歌を読んだ時、別世界に連れていかれた気がした。

黄色い芯を持つ目のさめるような色の睡蓮は、池一面に葉を広げ花を咲かせている。

その情景に心を奪われた。

しかし、その陶酔感は見た人だけではなく睡蓮自身も持っているという。

陶酔というと、ただ惚れ惚れとしているだけに思えるが、どうやらそれだけではないらしい。相手を変えてしまう力があるようだ。

以前、NHKのある番組で着物コーディネーターの池田重子さんの言葉が紹介されていた。

「自分が酔わなければ、人を酔わせられない」

この言葉を紹介した美容家のIKKOさんは、次のように続けた。「自分に酔うのとは全く違う」。

なるほど、自分酔うのは独りよがりの状態だ。しかし、自分酔うのは、どこか意志があり外の世界に働きかける力がありそうだ。

この歌の睡蓮も、自らが酔いながら人を魅了している。そこに、見た人を魅惑的な世界に引き入れて一体化させようとする睡蓮の力を感じるのだ。そしてこの歌自体も、読者をそのような睡蓮の世界へ引き込んでいく力をもっているのだ。

(『日本歌人』H28.9月号「私の前川佐重郎」より)

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青空の井戸よわが汲む夕あかり…(山中智恵子) @現代短歌の鑑賞101

青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや

山中智恵子/『みずかありなむ』S43

謡曲の作詞家、松本隆の歌詞にこのようなものがある。

夢遊病の街へと

飛び込みするポーズ

生きることに少し飽きかけているんだ

下り傾斜だからね

手を広げて走る

運がよけりゃ ふわり 飛べるかもしれない

ORIGINAL LOVE 「夜行性」)

ふわり。

飛べるはずはない。

けれど、歌になると飛べそうな気がするのは、どうしてだろう。

飛んでいる幻想に、わくわくしてしまうのはどうしてだろう。

掲出歌も趣は異なっているけれど、なんとなく茜色の空から何かを汲みあげることができそうな気がするのだ。

幻想が不思議な実感を持っているのだ。

青空の井戸。

それは空にある光の源泉のようなものだろうか。

あるいは、井戸の水を汲んだ時の、空が映っている水面の揺らぎを指しているのだろうか。

いずれにしても、夕あかりの「行く末」は夜である。

空も地上も井戸もそして「われ」も闇に包まれる一体感がそこにはあるだろう。

そして、下句「ただ思へ」のリフレインが、何かの祈りのように響いて奇妙な安堵感を覚えるのだ。

幻想から奇妙な安堵感へ――その実在しないのに何かがあるという信頼。

掲出歌は、そのような世界を詠み手と読み手が共有してゆく歌だと思う。

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片恋よ 春の愁いの一日を・・・(服部真里子)

片恋よ 春の愁いの一日をティッシュペーパーほぐして過ごす

服部真里子/『行け広野へと』H26

無自覚の情念というものがあるとすれば、それは掲出歌みたいなものかもしれない。

狂おしさや激しさが表出しない、自分で気づくことができない情念。

手持ち無沙汰な一日。

だらだらと何とはなしにティッシュペーパーをほぐしたりする。

何かをやりたいわけじゃない。

だからこそ、心に引っかかっている片恋ばかりが気になってくるのだろう。

「片恋よ」という恋そのものへの呼びかけで、手持無沙汰な心の中に片恋のあれこれが目一杯に広がってくる。

恋のはじまりから今までのすべての日々。それをひとつずつ丁寧にひらいてみたりする。

一方でその瞬間も「君」は恋人と充実した時間を過ごしているのかもしれない。

2枚で1組となるティッシュペーパーをほぐすという行為は、無意識にその関係をほぐしてしまいたいという暗示でもあるだろう。

もちろん春ののどかな一日である。その愁いは、花びらが舞うように、ティッシュペーパーが風に翻るように、軽くやわらかい。

けれど、自覚はなくてもそこには確かに行き場のない情念があるのである。

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たちまちに君の姿を霧とざし…(近藤芳美) @現代短歌の鑑賞101

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき

近藤芳美/『早春歌』S23

音楽がある人のイメージと重なるということはたまにある。

ある曲を聴いて、その人を思い出すという具合に。

メロディが引き金になって、情景や人物が生き生きとよみがえるのだ。

だけど、掲出歌は逆だ。

君の姿が消えてゆくときに、音楽を引き出している。

これはどういうことだろう。

映画で、別れ際のシーンにしっくりくる音楽が流れている感じだろうか。

でも、きっとそこまで作為的ではない。

「君」にしっくりくる楽章を「われ」は無意識に選び、思っているのだ。

それはある意味、彼女のイメージの美化ともいえるかもしれない。

恋のはじまりである。

不思議なことに、この音楽と人の引き出しあう関係は、時間が経ってゆくにつれ逆転するようだ。

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シェルターのように敬語をつかわれて・・・(俵万智)

シェルターのように敬語をつかわれて牛タンネギ塩じんわりと噛む

俵万智/『オレがマリオ』H25

この歌に魅かれたのは牛タンが入ってるからじゃないの?と言われれば、そうですというしかない。

仙台人にとってきっと牛タンはちょっと特別な位置づけの食べ物なのだ。

「せっかく仙台に来たんだし」

牛タンは、紹介がてら遠くから来た人と食べに行くことが多い。

そして自ら進んで食べに行くことは少ない。

仙台の象徴でありながら、ローカルになりきれない、微妙な距離感。

そんな牛タン屋での食事は、相手との距離をもあらわしている。

それは、相手が遠方から来ているという物理的な距離を表すとともに、関係の遠さも象徴している。

観光のようにやってきて、帰っていく人。

シェルターのような敬語というのはかなしい。

ある一線、それも強固な一線をひかれて向き合っているのだ。

そこから先に動けないのなら、今を噛みしめるしかない。

そのしょっぱさ。

そんなもどかしさを詠むならば、やっぱり「牛タンネギ塩」なのだ。

モツ味噌煮込みでも、吉次の炭火焼でもない。

そう考えると、一見かなしさとは無縁そうな牛タンに、不思議なものがなしさの一面があることに気付くのだ。

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